少年Aのことを悪っぽく書いたが、、、 自分としては、少年AもBも大好きだったので誤解なきよう、よろしくお願いしますね。大体にしてからが、連中が居なけりゃ、利根川に行ったところで、面白くもクソもないのだから、互いに必須の間柄なのだった。 どちらかと云えば、いたずら好きの自分が、彼らに対し、仕掛けたりしなかったので、日常的なお馬鹿な少年としての自然発生的で下らない相克のような関係性が生じなかったのかもしれない。それよりも釣りをメインにした夏の間の利根川遊びに夢中で、学ぶべき事柄が多かった、と云うべきだろうな。 もう一人の少年B。 ボクチン、というのが彼の愛称だ。他の二人と比べると、親父さん似のかなり端正な逆三角形の顔立ちで、静かで穏やかで、学校では決して目立たないタイプだった。釣りの勘、ないし感性、資質も優れていたが、やはり静かで、少年Aが動的であるのと対照的だった。 Bの釣り姿を今でも思い出す。 並継ぎの竿尻をかなり奥まで、つまりヒジ辺りまで控えて釣った。そのヒジ下まで控えた腕で竿アワセ、そして穂先に獲物が乗り振動し、上半身を軽く後傾させるまでの流れは、今でもしっかりと脳裏に焼き付いている。人柄が釣りに出ていて、やはり静かに、確実に釣る。もしかすると、3人の中では一番上手だったかもしれない。あるいは、オトナの釣りに近いような、安定感があったともいえるかもしれない。 ただし、少年Bのボクチンは致命的な問題を抱えていた。 それはいつもボクラ3人の悩みの種でもあった。彼が、いや我々が遊びに=釣りに出かけようとする時、4~5歳くらい歳の離れたボクチンの弟が、毎度まいど、一緒に連れて行けと駄々をこねまわすのだった。しまいには、必ずワアワア泣き出すのだ。ご母堂もうるさいガキの面倒を見よ、というスタンスであったから、ボクチンもボクラも本当に悩んだ。 弟の涙の抗議が赤城山の山頂に達する勢いの時は、ボクチンは釣行を諦めたりした。そうすると、少年Aも僕も、大いに意気消沈した。だから、大概の場合、ボクチンはそうっと、あのクソガキ・弟に気付かれないように、忍者のように準備して出かけるか、弟が大泣きになる前にさっさと庭を通り抜けて、厄介者をやり過ごした。彼の家から30mも離れれば、もう3台の自転車乗りの足には羽が生えていた。 ちなみに、何回かはその弟を同道したこともあったが、その時のボクチンはほとんど釣りをすることは出来なかったと思う。弟を連れた時には利根川は遠過ぎ、近場の沼か支流行きと相場は決まっていた。ボクラは遠出のアドベンチャーを諦めていたが、近場でもそれなりの遊びを見つけようと努力していたハズだ。 さて、釣りものは何か? 当地では、ハヤ・うぐいのことを クキ と呼ぶ。そして、オイカワを ハヤ と呼んだ。クキが現在形であるのに対し、ハヤ(関西では白ハエとかいうのか?)が過去形であるのは、クキが外道らしく今でも存在しまくっているのに対し、ハヤがこの地域的に絶滅危惧種的であると思えるからだ。いずれにしても、子供たちの獲物として、止水かそれに近い状態のポイントではクチボソ、勝者は真鮒で、流水ないし特殊な止水のジャリ穴では、そのハヤがメインの釣りものだった。 砂利穴の砂利船、あの舳先のポイントでは、ハヤ(オイカワ)が腐るほど釣れた。もとい、夏休みの長丁場では、ビク(サカナ入れ)の水を入れ替えるというアタマがないもんだから、多い時には紺色のビクの網の半分以上まで投入されたハヤは黄色く変色し、腐った。それを持ち帰る度に親からはイヤな顔をされた。 決して少なくはないサカナを持ち帰っていたのに、家庭内でそれをどのように処分したのか、の記憶がはっきりしない。これはきっと我が家的には、地元のサカナ文化が存在しなかったのだろうとしか思いようがない。どう思い出そうとしても、獲物が食卓に乗ったというような思い出がない。 悲しい話ではある。長じてから、獲物(鮎・ヤマメ・ワカサギ)に関して、ああじゃない、こうじゃないと、明らかに後付けの知識で色々な算段をつけ、調理したりするようになったが、それは少年期の、雑な扱いをしただろう獲物たちの記憶への代償的なリスペクト的行為ではないか、などと感じたりする。 |