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上流へ!(カミへ)ジャリ穴の砂利船 ④

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あの当時、ボクが認識した砂利穴は4ヶ所だった。


 ① 砂利船のある穴(メインのジャリ穴)


 ② そこからすぐ北西のせまくて深い穴


 ③ さらに西にある、本流に直結した長い穴


 ④ 東にある浅くて広い穴(自然プール)




①メインの穴


なんといってもメインの砂利船のジャリ穴。ここでは自分たちも徹底的に遊んだし、後で紹介するご老人の話も出てきたりするので、とっておくことにする。砂利船の東側が非常に広く、フロント側は深く狭かった。



②この船の前側の右前方に、独立した細く深い穴があった。


ここには忘れたくても忘れられないエピソードがある。

6年生の夏休みだった。

この穴は他のどの穴よりも深かったので、水色が他の穴よりはるかに濃く、透明だった。他のいずれの穴とは異なり、泥っ気がないので、水草類がほとんどなかった。釣りよりも泳ぎがメインの日だったと思う。。。


おっと、その前に、ボクラの町の小・中学校の

特殊性を説明しておかなければならない。。。



利根川も暴れ川の系譜にある川で、例えば、今これを書いている我が家のこの場所は、昔、おおよそ150年以上くらいの昔には、利根川が流れ、川底だった場所だ。かつ、この地区の利根川の流れた北限に当る。だから、今でも毎年か隔年には、夏から秋の時期にちょっとした大雨でも、目の前の農道は川に変貌してしまうのだ。


この場所に川が流れていたというエビデンスとなる写真を見た事がある。それはマイ小学校の90周年記念事業の展示物の中に発見したのだったが、それから45年が経過したから、あの小学校は現時点で、おおよそ135年モノということになる。



で、今の本流は、ここから南へ、軽く2~3キロ先を流れている。明治だか、大正の頃だか、もしかしたら昭和時代にもやったのかもしれないが、護岸をすることになって、今の状態に落ち着いたわけだが、護岸が出来上がるまでは、川は好きだけ暴れたという。



明治期の養蚕で有名なその名も「島村」という村落が利根川の流れるまっただ中にあった。護岸工事の時、この村は、現在の護岸から見れば、南側(埼玉県側)と北側(群馬県側)に分かれた。地元の古老によれば、村は南北に分かれただけでなく、一部の人々はこの土地を捨て、移住していったとも聞いた。



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僕自身も現在の河川敷というか、本流域の水中に異様なものを発見したことがあった。それは家屋の土台、レンガ積みの基礎だった。それも数Mの長さのある、そこそこの規模だったので、流れてきたものでないことは、すぐにわかった。その時は、村の変遷の歴史を知らなかったから、非常に不思議に思った。。。



だから~~ なにがゆいたいのかというと~~


町場(ボクラの町)と利根川の北側と南側の分校、すなわち、3ヶ所の小学校エリアから、ボクラの通った中学校に3種類の生徒たちが集ったというわけなのだ。小六の夏休みのその時、そんなことは露とも知らず、毎日真っ黒になって遊び狂っていたわけだけど、利根の北側のヘリに住んでいたグループと、その狭く深~~い砂利穴で一緒になった。。。


ここで泳いで驚いたこと。


それは、この穴の水深1mより下はきわめて水温が低かったことだ。立ち泳ぎをしていて、手足の動きを止めるとカラダは沈む。するとつま先が「ヒヤッ」とする。青黒い水底はみえないので、何か、得体のしれないものが潜んでいるようなイヤな気がして、すぐに岸辺に上がる。


そんなことを繰り返していたら、、


ガラ、ガラ、ガラッ!と岸辺の玉石が崩れる音がした。周り中、コブシ大以下の丸石の積み重ねであるから、すぐに崩れるのだ。水の巾はせいぜい広くても5~6m、だから、飛び込めばすぐに向こう側にはたどり着くのではあったが、この水の中央付近に低学年の少年がハマリ込んで、溺れたのだった。


(続く)



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