砂利船は 廃船。 トロッコは 廃線。 ほんの1~2年前の東京オリンピックに砂利の供給を間に合わせた。パブリック・インスティツゥションと道路の完成で、需要が一息ついたのだろう。故に、砂利船とトロッコ路線は放置された。放置期間は、稼働停止後、せいぜい4~5年間くらいだったのではないか。そしてボクラは、少なくともふたつの夏休みを、ココをメインにした利根川で過ごした。 ジャリ船。 この奇妙な鉄の構造体と、それが通過した後に出来た深い穴。やがてそこに決して少ない量ではない水塊が出現し、水が持つ生物達は環境に慣れつつ、それなりの雰囲気を作り出し、広い河川敷に特別な真水ワールドが出現した。 船が作業しつつ通過してきた後方には、100m以上 × 30mもあるような広いプールが出来上がっていた。このプールは船の現在位置から遠くなるほど浅くなり、泥の堆積も多めにあった。浅場では水も温く停滞していた。岸際の足場も泥だったから、遠いせいもあって不人気の場所だった。あくまでメインは砂利船周りの深場だった。 船のすぐ前方と後方のそれぞれ20数mと、センターのジャリ採り溝は深かった。主には、前方の深みが釣りの好ポイントだった。下の概念図の★印が僕のお気に入りの指定席だった。水面まではおそらく2m半くらいはあったと思われる。ミヨシに陣取り、たまに引っかかって上がってくる水草は、身長を優に越えるような長さだったから、少なく見積もっても、水深は3m以上はあっただろう。 |
全身赤錆で覆われた巨大な鉄船の残骸と 前後にブリリアントなブルーグリーンの真水を湛え 強烈な光線が全てを支配する真夏の空間。 後に、すっかり忘却の彼方にあったこの砂利船とジャリ穴の風景を急に思い出させる映画をみた。ジブリ第2弾「天空の城・ラピュタ」、その導入部分だ。酸化した鉄塊と鼻を突く埃の入り交じった機械油やグリスの匂いがスクリーンから一気に漂う気がした。刹那、真夏の記憶が駆け巡った。子供たちが船上を走ると、かんかん、ガン・ガン、ダンダンと内部共鳴する鉄船。夏の少年たちの格好の前線基地であり漁場であった。 |
なぜ、このジャリ穴エリアに出かけることになったか、その経緯の記憶はない。家族の中に釣りや漁の大好きなオトナ達の存在を確実に思わせる少年Aの「いくんべえ」という掛け声があったのだろうと思う。無論、子供たちだけでの行動だ。大人たちは稼ぐに忙しかったし、誰もボクラの川遊びを禁ずるようなブサイクはなさなかった。 Aは、3人の中でも、最も「はしっこい」子だった。先ずは、誰よりもナレッジ、遊びの知識の豊富さの点で優位に立っていた。そして、真似することの出来ない指先の器用さ。フルチンになるのも得意で、誰かがゴム草履を流せば、すぐに飛び込んで回収して来てくれたりした。では、彼がボクラのリーダーだったかというと、そうではない。彼は自らの好奇心と欲望に忠実だっただけだ。 ちなみにジャリ穴への経路の途中、支流の河川敷には、僕らが「ヒョウタン池」と呼んだ沼ッ気のある水たまりがあった。水たまりというには狭過ぎるだろうか、大池と小池が水流のある隘路で連結されていて、狭まった水流をサカナ達が行き来していた。小さな沼ふたつ合わせた全長は30m以上はあったかもしれない。大型の雷魚が悠然と泳いでいたりした。なにせ、ヘビのようなサカナもいるし、足場はヌルつく薄気味の悪さで、ここで釣りをする気にはなれなかった。 Aは、このヒョウタン池で、それまで他の二人が一度も拝んだことのなかったササリ(刺し網)をうまい具合に操った。おそらく父親か、祖父の所有するタックルだったのだろう。網のもう一方の作業者への指示は的確だった。刺し網をセットした後は、本流の砂利穴へ出かけ、帰り道に回収する。そうしたサカナ釣りだけではない遊びのテクニックを知悉したAの姿を見るにつけ、感嘆と気後れが交差したりしたものだ。 同時にAは少年特有の残忍さを併せ持っていた。 Aは、2B弾の流行った時期には、近くの公園の沼に生息していたガマガエルを捕まえて、点火したソレを口の中に押し込み、水面に投入するのだ。青白い煙を引きつつ泳いでいったガマは、「ポンッ!」と軽妙な破裂音を発し、たいていは白い腹を返して死んだ。周りの少年たちの一群は、それを見て大いに喜んだ。この遊びの場は、町場に近いこともあって、Aの周りのメンバーは利根川グループの少年A~Cではなく、それ以外の子供たちだった。 そういえば、Aがカエルを引っかけて捕まえる道具は、細い篠竹の先端に上手にくくり付けられた3本イカリだった。イカリ鉤というものを初めて見、認識したのもAのおかげだった。ボクラが小学校5~6年生の頃だった。 (この項、続く) |