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上流へ!(カミへ)ジャリ穴の砂利船 ①

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オレ鮎&秘伝ブログ



みなさん、今晩は。


前出・三重県のアサリの話に反応して
実は、かれこれ50年も昔、


 当地利根川で、シジミが取れた、いや採った


という過去を思い出した。



今や、柳の下の2匹目のどぜう=2度目の東京五輪誘致でかまびすしい昨今だが、あの1st 五輪は確か、1964年、小生・小四のころだった。



なんだって、



 50年前の東京五輪と利根川のシジミが関係するのか


という疑問と、その過去の環境の中で、


 少年A~C達はどのように生きていたか、


何をしていたのか、というのが今回のテーマである。。。



・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・



そもそも、我々ポスト団塊から団塊以上の戦後世代は、この国の、あるいは我々の、過去の貧しさを、意識付け的に云うなら、清貧の時代を少しだけ知っている。今や、完全に死語になった、へっつい、かまど、ひちりん、けしつぼ、ながひばち、家庭内の火周りのアイテムだけでも、こうのようにボロボロと懐かしい言葉が転げ出てくる。


さておき、


少年A~Cは、その戦後の貧しさを少年期の前半に体験したが、むしろ、その後の経済成長期、すなわち、前青春期とでもいえるような時期に経験した事物の方が質的にも量的にも、精神面での影響力という点においても圧倒的だったわけだが、今回は、その戦後の貧しさの残滓という時期と、経済成長期とのちょうど過渡期の思い出を、利根川との関わりにおいて述べてみる。



・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・—・



東京オリンピックの1~2年後の頃だ。


本格的な戦後復興は、都市の再形成で顕著だったわけだが、首都高にその典型がみられる、ありとあらゆる都市の復興・新興の現場には、すさまじい量の鉄、そしてセメントが投入された。その 

  セメントの相棒が砂
 であった。


なかでも良質の砂は鉄材を酸化(=劣化)させることの少ない 


  川砂
 だ・・・


圧倒的な流域面積を誇る我らが利根川は、のみならず、平野部にあっては河川内面積も他とは比較にならないほどの巨大さを持つ。だから、前述の川砂の優秀な供給地のひとつであったであろうことは想像に難くない。なぜなら、少年A~Cの遊び場のセンターポジションには、強烈な 


  砂採りマシーン=ジャリ船
 


が鎮座していたのだった。



そのマシン、すなわちジャリ採り船の模式図はこうだ。


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まあ、日の丸はジョークだが、おおよそ、こんな形をしていた。これが本流にほど近い川岸周りを進行し、下の図のセンターの溝からジャリを取り上げ、砂を船外へと導いて、トロッコに乗せる。トロッコは支流(広瀬川)を横断していたから、砂の運搬は、おそらくダンプによるものだっただろう。


トロッコの線路も記憶に生々しい。


そのトロッコがかかる支流・広瀬川というのは前橋市のカミ、渋川市との境界辺りの利根川・左岸から取水された人造の用水用河川であり、わが家の庭から眺める土手はこの川のものである。トロッコの線路がこの川を渡る部分は、利根川と再度合流する逆V字地点のすぐカミに当るが、さすがにこの川の上を走る線路を渡ったという記憶はない。だが少年たちの冒険のひとつとして検討され、語られたことはあったと思う。



その後、中学校でサッカーを始めた関係で、利根川との親密度は極端に下がってしまった。夢中でボールを追いかけている間に、前出・ジャリ船も、トロッコ線路も撤去されたのではないか。線路の記憶が鮮明である割に、その消失の記憶は乏しい。古びた路線には夏草が繁茂し、うち捨てられた感が、もともとあったし、むしろ、少年たちの遊び場のメインはジャリ穴だった。



次回はジャリ穴の超~入れ食いを思い出す。



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